やっと自分の中で整理できたので記する。
ここ数年、『食育(しょくいく)』という言葉がよく使われる。
かねてより、私はこの言葉が嫌いだった。
その理由が上手く説明できなかったので曖昧にしてきたが、今回頑張って自分なりの嫌いな理由について書いてみたいと思う。
『食育』と称し、様々な行政・企業・各種団体が活動していることの内容については非常に素晴らしいことだと思っている。また、もっともっとこうした活動が広がればとも思う。
が、この活動を『食育』というフレーズで表現して欲しくない。
表現して欲しくないと言うより、『己の恥ずかしさに蓋をしたい』といった方が素直な気持ちなのかもしれない。
便利な世の中となり、野菜がどうやって収穫されるかとか、豚の小間切れが、スーパーの店頭に並ぶまでの食肉加工の流れを知らなかったり、自分自身、この目で見たわけでもなく、知識だけ知っていると言うことはこの現代社会において多々あることで、そもそも自分のこの体が、多種多様な生命の犠牲から成り立っている生命体であることを忘れ、悠々自適に、我がもの顔でこの地球上に生きていることの無知さ。
故に来る恥ずかしさ。
よって、この羞恥心から来る感情が、ここ数年の間に出てきた『食育』というフレーズを聞くと、いかにも己の無知さを路程・中傷されている気がしてならない。
おそらく、現在使われている『食育』という言葉はもっと幅広い意味で使われているのだろうが・・・。
つまり、『食育』というフレーズから来る羞恥心に、『臭い物に蓋をしたい』と思っていたのである。
そのために、今日までえらい拒否反応を示していたのだと思う。
本当に自分勝手なわがまま理由だ。。。
今一度言うが、取り組みについては大賛成だ。
今後ももっともっと増えて欲しい。
が、一番怖いのは、このフレーズに慣れてしまう自分自身。。
うまくまとまったかは疑問だが、今日は『食育』というフレーズに自問自答してみた。